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2014.06.06

あじさい澤のサブカル日記◆『共喰い』についての感想~2014年5月30日 

30日
青山真治監督『共喰い』を観る。

最近の青山真治の映画に強く出ている傾向のように思うんだけど今回も、女優と芝居が良い。
田中裕子さんの芝居がいちいち泣ける。本当に素晴らしい。エンドクレジット前に、母に捧げる的な英文が掲げられるんだけど、なんか非常になっとくしてしまった。

ロード


とあるシーンで、一人の人間が人を殺すに至る宿業のようなものを感じた。殺人に至る情感とでも言おうか。そう云うものを背負ってしまった人間のもわっとした色気にドキドキした。
そしてそんな共感を超えた納得を感じるために俺は物語をさがしている。だからとても面白かったし、見てよかった。


tomogui.jpg

それから、何がしかの型から逃れるような映画だと思った。ほんとに漠然とした書き方なんだけど、映画を観ていると、噛み砕かれた映画の記憶のようなものを感じる事があって(それはストレートにオマージュって呼ばれるものであったり、もしくはアメリカ映画のように集積された技術の発露だったり、意識的にせよ無意識にせよ、過去の参照が比較的しやすいメディアと云う事もあり、映画は、いままで生産された作品の集積の上に成り立つ芸術で、他のものよりその側面が強い、と思っていて)、青山真治の映画も『サッドバケーション』より前は、記憶を噛み砕いた感の強い映画を撮っていたような印象があった。
しかし今回の『共喰い』も含め『サッドバケーション』以降の青山真治はそんな集積を感じない作品を撮り続けているように思う。
その集積の感じなさは、◯◯のような日本映画、と言いづらい映画であるのは勿論のこと、もっと言えば、「日本映画」とすら呼びづらいような所まで行ってしまってるようにもみえる。「これは日本映画と云う狭い地域性に縛られた映画ではない。アジア映画だ!」なんて漠然とした事を言い放ちたくなるような器のデカさがあった。

集積を礎にすることで、何かもっと新しい、視座の高いものを作ろうとする強力な意志。下じきにした映画の残骸を導引し、日本をアジアと捉えなおす事で、新しい映画が立ち上がってくる感触のする作品だった。


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